misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
あるとき
金子みすゞお家(うち)のみえる角へ来て、
おもい出したの、あのことを。
私(わたし)はもっと、ながいこと、
すねていなけりゃいけないの。
だって、かあさんはいったのよ、
「晩(ばん)までそうしておいで」って。
だのに、みんなが呼(よ)びにきて、
わすれて飛んで出ちゃったの。
なんだかきまりが悪いけど、
でもいいわ、
ほんとはきげんのいいほうが、
きっと、母さんは好(す)きだから。
けがした指
金子みすゞ白い繃帯(ほうたい)
していたら、
見てもいとうて、
泣きました。
あねさまの帯(おび)借(か)りて、
紅(あか)い鹿(か)の子(こ)でむすんだら、
指はかわいい
お人形。
爪(つめ)にお顔を
描(か)いてたら、
いつか、痛(いた)いの
わすれてた。
ちひろのコメント
私たちの感覚って、不思議ですね。痛いはずなのに、それ以上に夢中になれるものがあると、痛いのを忘れることが出来る。それがもっと広がって、いやなことがあった時も、それ以上に幸せだと思えることを見つけると、いやなことも忘れることが出来る。思い方ひとつで、日々が変わる。自分の気持ち次第で、毎日が明るくなるんですね。王子山(おうじやま)
金子みすゞ公園(こうえん)になるので植えられた、
桜(さくら)はみんな枯(か)れたけど、
伐(き)られた雑木(ぞうき)の切株(きりかぶ)にゃ、
みんな芽が出た、芽が伸(の)びた。
木(こ)の間(ま)に光る銀の海、
わたしの町はそのなかに、
龍宮(りゅうぐう)みたいに浮(うか)んでる。
銀の瓦(かわら)と石垣(いしがき)と、
夢(ゆめ)のようにも、霞(かす)んでる。
王子山から町見れば、
わたしは町が好きになる。
干鰮(ほしか)のにおいもここへは来ない、
わかい芽立(めだ)ちの香(か)がするばかり。
ちひろのコメント
この詩は金子みすゞさんが故郷・仙崎を想う詩の中でも一番、「ふるさとが大好き」という思いが伝わってくる詩に感じます。この詩も歌にしていますが、コンサートでもとても喜ばれるひとつです。仙崎に行ったら、必ず訪れてほしい場所。王子山に吹く風に、みすゞさんを感じます。山と空
金子みすゞもしもお山が硝子(がらす)だったら、
私(わたし)も東京が見られましょうに。
――お汽車で
行った、
兄さんのように。
もしもお空が硝子(がらす)だったら、
私も神さまが見られましょうに。
――天使(てんし)に
なった
妹(いもと)のように。
ちひろのコメント
遠くに行ってしまった存在を想う心。お山が硝子だったらと、その透きとおる光景がまた切なく映ってきます。天使になった妹。この世に生まれてきても、すぐに空の向こうへ旅立った命。でもその妹は、神さまのすぐ近くにいる。私も神さまを見たいなと思うこの気持ち、金子みすゞさんの優しさが伝わってきます。明日
金子みすゞ街(まち)で逢(あ)った
母さんと子供(こども)
ちらと聞いたは
「明日(あした)」
街(まち)の果(はて)は
夕焼小焼、
春の近さも
知れる日、
なぜか私(わたし)も
うれしくなって
思って来たは
「明日(あした)」
ちひろのコメント
歌にしている金子みすゞさんの詩のひとつです。この詩を読むと、読んでいる自分までなんだか明日が楽しみになってくる、気分がちょっと落ち込んでいても、みすゞさんが「明日はきっといい日だよ」って言ってくれるような、そんな詩に感じます。ちょっとした道で出逢ったその瞬間に、気分が変わる出来事がある。素敵な毎日です。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
子どもの心は忙しいですね。これが子どものリズムです。大人は結構いつまでも引きずることも、子どもは楽しいことがあったらすぐに忘れることが出来る。そしてまた、最後がいいです。自分が機嫌がいい方がお母さんは好きだからと、開き直る可愛らしさ。こうした子どもらしさ、憎めないですね。