misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
巻末手記(かんまつしゅき)
金子みすゞ――できました、
できました。
かわいい詩集ができました。
我(われ)とわが身に訓(おし)うれど、
心おどらず
さみしさよ。
夏暮(く)れ
秋もはや更(た)けぬ、
針(はり)もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地(ここち)する。
誰(だれ)に見しょうぞ、
我さえも、心足(た)らわず
さみしさよ。
(ああ、ついに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)
とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来(こ)し。
明日(あす)よりは
何を書こうぞ
さみしさよ。
もくせい
金子みすゞもくせいのにおいが
庭いっぱい。
表の風が、
御門のとこで、
はいろか、やめよか、
相談してた。
ちひろのコメント
とっても好きな詩のひとつです。もくせいには、白い花の銀木犀とオレンジ色の金木犀があるんですね。香りが強いのが金木犀だそうです。なのでこの詩のもくせいはきっと金木犀ですね。表の風は、自分が入っちゃうと漂うにおいを消してしまうと気をつかったのでしょうか。相談してるなんて、とっても可愛いです。周りにはこんなに素敵なやりとりがいっぱいだと想像すると、心がどんどん優しくなりますね。障子(しょうじ)
金子みすゞお部屋の障子は、ビルディング。
しろいきれいな石づくり、
空まで届(とど)く十二階、
お部屋のかずは、四十八。
一つの部屋に蠅(はえ)がいて、
あとのお部屋はみんな空(から)。
四十七間(ま)の部屋部屋へ、
誰(だれ)がはいってくるのやら。
ひとつひらいたあの窓(まど)を、
どんな子供(こども)がのぞくやら。
――窓はいつだか、すねたとき、
指でわたしがあけた窓。
ひとり日永(ひなが)にながめてりゃ、
そこからみえる青空が、
ちらりと影(かげ)になりました。
ちひろのコメント
この詩は「金子みすゞ童謡全集」の一番最初の詩です。ビルディングという英語の言葉が出てくるところが、下関に移り住んだみすゞさんが、海外の様々な文化に触れられる当時の賑わいを見せる下関を匂わせている気がします。障子の一マスを部屋に見立て、住人は今、蠅一匹。可愛いですね。障子の向こうに誰かが来たところで、この空想は終わりました。いつも、いろんな世界へ旅するみすゞさんです。絹(きぬ)の帆(ほ)
金子みすゞ王様のお船にかける帆は、
うすく、うすくといいつかる。
うす紫(むらさき)のうす絹(ぎぬ)に、
港のまちが絵(え)と透(す)いて、
とてもきれいな帆は帆だが、
風は、ぴゅうと来て、
穴(あな)あけた。
風のみちあけたらやぶるまい、
風のみちあけろといいつかる。
うすむらさきのうすぎぬに、
王様の御紋(ごもん)のきりぬきで、
とてもきれいな帆は帆だが、
風は、ぴゅうと来て、
行きぬけて、
船は出やせぬ、
一尺(いっしゃく)も。
ちひろのコメント
みすゞさんの詩のコミカル部門(私が勝手に名付けた部門(笑))の中で1位2位を争う好きな詩です。アンデルセン童話などの影響も受けていたであろうみすゞさんの詩の世界を感じますね。「はだかの王様」のある日の出来事のような雰囲気です。どんな時代もどんな世界も、トップの人間にちゃんとアドバイスする存在、そして素直に受け入れるトップの人間性、必要ですね。
仙人
金子みすゞ花をたべてた仙人は、
天へのぼってゆきました。
そこでお噺すみました。
私は花をたべました、
緋桃の花は苦かった。
そこでげんげをたべました。
お花ばかりをたべてたら、
いつかお空へゆけましょう。
そこでも一つたべました。
けれどそろそろ日がくれて、
お家の灯りがついたから、
そこで御飯をたべました。
ちひろのコメント
みすゞさんらしい展開の詩です。仙人と同じように花を食べたら私も仙人がのぼっていったお空へゆける。でも現実は、私にはいつもの美味しい御飯が待っていた。やっぱり御飯を食べている私は、このままこの現実の世界で生きているんだな、と、なんだか不思議と安心するような、そんな詩です。特別なことではない普段のあたり前の生活。その中で暮らしている私。愛おしい毎日です。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
金子みすゞさんの3冊の遺稿集最後の詩です。まさに詩の創作を止めた時の気持ちを綴っている詩で、とても切なくなります。昭和3年の11月に発表された詩を最後にし、昭和4年の夏から秋にかけて、512編を清書しています。その年の9月26日付け、母ミチさんへ宛てたハガキには、「雑巾がけをしたら5日やすみました。起きてもなんにもしません。ほんに食べるだけの事です」と記しています。この頃の喜びだったのが、娘・ふさえさんのおしゃべりを小さな手帳に「南京玉」と題して記したことでした。今、その「南京玉」は、ふさえさんと母を繋ぐ大切な宝物になっています。