misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
二つの小箱
金子みすゞ紅絹(もみ)だの、繻子(しゅす)だの、甲斐絹(かいき)だの、
きれいな小裂(こぎれ)が箱いっぱい。
黒だの、白だの、みどりだの、
なんきん玉が箱一ぱい。
それはみいんな私(わたし)のよ。
いつか、ちいさい兄さんが、
船長さんになったとき、
二つの小箱をたのむのよ。
それはみいんな私のよ。
船は波路をなん千里、
小人の島へ交易(こうえき)に。
そしてかえりにゃ甲板(かんぱん)に、
島の宝(たから)が山のよう。
それはみいんな私のよ。
私は明るい縁側(えんがわ)に、
ずらりときれを並べるの。
それからさらさら音立てて、
なんきん玉をかずえるの。
それはみいんな私のよ。
荷馬車
金子みすゞお馬は
じぶんの影(かげ)んぼの、
おかしなお耳が踏(ふ)みたくて、
下見ていそいで歩きます。
馬車屋は
空(から)っぽの馬車の上、
おおきなお煙菅(きせる)横っちょで、
のどかにお空をみています。
空には
雲がかがやいて、
昨夜(ゆうべ)の火事はうそのよう。
町にも春がじき来ます。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの大好きな時間のひとつには、きっと町をぼーっと一人で眺める、いろんな人や動物、景色を眺める時間があったと思います。この詩も、こののどかな景色を見つめているみすゞさんの姿、もうすぐ春が来ることが嬉しそうな姿が浮かんできますね。ふうせん
金子みすゞふうせん持った子がそばにいて、
私(わたし)が持ってるようでした。
ぴい、とどこぞで笛が鳴る、
まつりのあとの、裏(うら)どおり。
あかいふうせん、
昼の月、
春のお空にありました。
ふうせん持った子が行っちゃって、
すこしさびしくなりました。
ちひろのコメント
赤い風船と、昼の白いお月さま。それが春のお空にある光景。ふわふわ浮かぶ風船と、かすむ春の空のぼんやりとが、なんだかちょっと切なさもあって、少しさびしい気持ちがよく伝わってきますね。思いを描写するセンスが光る、1編です。ながい夢(ゆめ)
金子みすゞきょうも、きのうも、みんな夢、
去年、一昨年(おととし)、みんな夢。
ひょいとおめめがさめたなら、
かわい、二つの赤ちゃんで、
おっ母(か)ちゃんのお乳(ちち)をさがしてる。
もしもそうなら、そうしたら、
それこそ、どんなにうれしかろ。
ながいこの夢、おぼえてて、
こんどこそ、いい子になりたいな。
ちひろのコメント
優等生だった金子みすゞさん。そんな彼女でさえこんな気持ちを抱くのかと思うと、とっても親近感が湧きます(笑)。これまでの人生を全部覚えてて、昔に戻れるとしたら、皆さんは何歳に戻りたいと思いますか?お勘定(かんじょう)
金子みすゞ空には雲がいま二つ、
路には人がいま五人。
ここから学校(がっこ)へゆくまでは、
五百六十七足(あし)あって、
電信(でんしん)柱が九本ある。
わたしの箱のなんきん玉は、
二百三十あったけど、
七つはころげてなくなった。
夜のお空のあの星は、
千と三百五十まで、
かぞえたばかし、まだ知らぬ。
わたしはかんじょうが大すき。
なんでも、かんじょうするよ。
ちひろのコメント
みすゞさんは、いろんなものを数えるのも大好きだったみたいです。みすゞさんの実家から小学校までは本当に電信柱は9本だそうで、
そして、人が肉眼で夜空の星を数えられるのは、およそ3,000個だそうで、
みすゞさんのこの感覚は正確な数字と言えるようです。
ふんわりと見つめるまなざしもあれば、正確に知ろうとする心も持ち合わせているみすゞさん。
彼女の魅力は、宇宙のように果てしないです。
「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
金子みすゞは詩の創作を夫に禁じられてからは、3歳の一人娘・ふさえの言葉を採集していますが、その綴った手帳のタイトルを『南京玉』とつけています。この『二つの小箱』に出てくる「なんきん玉」という言葉をたどる度に、みすゞさんがどれだけふさえさんのことを宝物に思っていたかが偲ばれます。