misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
つつじ
金子みすゞ小山(こやま)のうえに
ひとりいて
赤いつつじの
蜜(みつ)を吸(す)う。
どこまで青い
春のそら、
私(わたし)はちいさな
蟻(あり)かしら。
あまいつつじの
蜜を吸う、
私はくろい
蟻かしら。
にぎやかなお葬(とむら)い
金子みすゞ明るい、明るい、春の日です。
とても見事なおとむらいです。
なん百という花輪の花は、
明るい明るい空の下で、
みんなみんな嬉(うれ)しそうです。
朱(しゅ)ぬりの車にのせられている、
鳩(はと)たちの黒い翅(つばさ)も、
みんなみんな光っています。
あ、小さな男の子がひとり、
花輪のなかをくぐりぬけます、
私(わたし)もぬけてみたくなります。
ちょうどあの、祭の晩(ばん)に、
神輿(みこし)の下をくぐるように。
たかいたかい旗のそばに、
うすいうすい雲が浮(う)いて、
ほんとにのどかな春の日です。
註(ちゅう)四月二十六日、土地の親分伊(い)藤(とう)なにがしの葬式(そうしき)あり。花輪余(よ)対(つい)、見物人おびただし。みな、なんとのう興(きょう)ありげなりき。
ちひろのコメント
註釈によって、実際の出来事だとわかると、なんだか金子みすゞさんの日常を知る、みすゞさんのファンにはささやかに嬉しいような、そんな気持ちになります。子どもたちは、お葬式はどうしても花輪の豪華さや人々の多さに目が移ってしまいますね。土地の親分のお葬式となると、それは子どものみならず、大人も「興ありげ」なんですね。仲なおり
金子みすゞげんげのあぜみち、春がすみ、
むこうにあの子が立っていた。
あの子はげんげを持っていた、
私(わたし)もげんげを摘(つ)んでいた。
あの子が笑う、と、気がつけば、
私も知らずに笑ってた。
げんげのあぜみち、春がすみ、
ピイチク雲雀(ひばり)が啼(な)いていた。
ちひろのコメント
喧嘩をしたあと、相手もわたしも大好きなげんげ(れんげ)の花を摘んで、嬉しく楽しい気持ちを、仲良しな相手とついつい共感し合った、こだましたんですね。ピイチク啼いているひばりもきっと、その光景を微笑ましく見ていたんでしょう。春が、仲なおりしたふたりを、優しく包んでいます。象
金子みすゞおおきな象にのりたいな、
印度(インド)のくにへゆきたいな。
それがあんまり遠いなら、
せめてちいさくなりたいな。
おもちゃの象に乗りたいな。
葉の花ばたけ、麦ばたけ、
どんなに深い森だろう。
そこで狩(か)り出すけだものは、
象より大きなむぐらもち。
暮(く)れりゃ雲雀(ひばり)に宿借りて、
七日七夜を森のなか。
えものの山を曳(ひ)きながら、
深い森から出たときに、
げんげ並木(なみき)の中みちは、
そこから仰(あお)ぐ大空は、
どんなにどんなにきれいだろ。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの一人娘・上村ふさえさんが大好きだった詩です。ふさえさんがまだ幼い当時、お母さん(みすゞさん)へ話したふさえさんの言葉が「南京玉」に綴られていますが、その中にも象の話が出てきます。記憶のないお母さんとの繋がりを感じる詩。みすゞさんにとっても、ふさえさんにとっても、宝物です。さくらの木
金子みすゞもしも、母さんが叱(しか)らなきゃ、
咲(さ)いたさくらのあの枝(えだ)へ、
ちょいとのぼってみたいのよ。
一番目の枝までのぼったら、
町がかすみのなかにみえ、
お伽(とぎ)のくにのようでしょう。
三番目の枝に腰(こし)かけて、
お花のなかにつつまれりゃ、
私(わたし)がお花の姫(ひめ)さまで、
ふしぎな灰(はい)でもふりまいて、
咲かせたような、気がしましょう。
もしも誰(だれ)かがみつけなきゃ、
ちょいとのぼってみたいのよ。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの詩には、「花咲か爺さん」の話に繋がる言葉、よく出てきますね。おとぎ話の世界と現実を重ねて見つめる世界が大好きだったんでしょう。こうした世界を心の中で楽しめること、想像力をフルに働かせる心の柔らかさ、今の時代にとても大切な感性ですね。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
最近はつつじの花が咲く時期も早くなってきたような気がしますね。つつじの密を吸っていると、なんだか蟻の気分になってきた様子です。私も子どものころ、通学路の途中で密を吸って楽しんだ思い出があります。懐かしい世界が蘇るのも、みすゞさんの詩の楽しい時間です。