misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
冬の星
金子みすゞ霜夜(しもよ)の
まちで
お姉(ねえ)さま、
空をみながら
いいました。
――しずかに
さむく
さよならと。
霜夜の
そらの
お星さま、
いちばん青い
お星さま。
――ちょうど
あなたに
いうように。
なまけ時計
金子みすゞ柱時計のいうことにゃ、
きょうは日曜、菊日和(きくびより)、
旦那(だんな)さんの役所も休みなら、
坊(ぼっ)ちゃん、嬢(じょっ)ちゃん、みンな休み。
あたしばかりがチック、タク、
かせぐばかしでつまらない、
ひとつ、昼寝(ひるね)と出かけよか。
なまけ時計はみつかって、
きりきり、ねじをねじられて、
ごめん、ごめんと鳴り出した。
どんぐり
金子みすゞどんぐり山で
どんぐりひろて、
お帽子(ぼうし)にいれて、
前かけにいれて、
お山を降(お)りりゃ、
お帽子が邪魔(じゃま)よ、
辷(すべ)ればこわい、
どんぐり捨(す)てて
お帽子をかぶる。
お山を出たら
野は花ざかり、
お花を摘(つ)めば、
前かけ邪魔(じゃま)よ
とうとうどんぐり
みんな捨てる。
朝蜘蛛(あさぐも)
金子みすゞ朝から朝蜘蛛(あさぐも)さがったし、
朝からなんだかうれしいし、
きっと、今日こそ来るでしょう。
お母さまも知らないが、
生きて、遠くに棲(す)んでいる、
お父さまのおむかえが。
すぐに、私(わたし)は髪(かみ)結(ゆ)うて、
好きな手毬(てまり)のおべべ着て、
赤いお馬車に乗るでしょう。
赤いお馬車のゆくみちは、
白い芒(すすき)のみちでしょう、
野菊(のぎく)もちいさく咲いてましょう。
旗のたってる小(ち)さい村、
鐘(かね)の鳴ってる寺のまえ、
しめった、暗い森のなか。
そして、夕焼消えるころ、
むこうのむこうに城(しろ)のよな、
大きなお家がみえるでしょう。
お父さまは待ちきれず、
門から駈(か)けてくるでしょう、
私も馬車から飛ぶでしょう。
私は「父さま」と呼(よ)ぶでしょう、
いやいや、黙(だま)っているでしょう、
あんまり、あんまり、嬉(うれ)しくて。
朝からなんだかうれしいし、
朝から朝蜘蛛(あさぐも)さがったし、
きょうは、何かがあるでしょう。
黄金(きん)の小鳥
金子みすゞ木(こ)の葉(は)が黄金(きん)に変(か)わった、
私(わたし)も黄金に変わろ。
とおいお国の王様の、
使いが私をおむかえに、
宝玉(たま)でかざった籠(かご)もって、
きっと、きっと、やって来る。
黄金(きん)の木(こ)の葉(は)は散った、
散っても黄金(きん)のいろだ。
明日(あした)はきっと、変(か)わろ、
くろい私が黄金(きん)に。
黄金(きん)の木の葉は朽(く)ちた、
黄金(きん)になりゃ、朽ちる、
黒くて光っていような。
「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ