misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
明るい方へ
金子みすゞ明るい方へ
明るい方へ。
一つの葉でも
陽(ひ)の洩(も)るとこへ。
藪(やぶ)かげの草は。
明るい方へ
明るい方へ。
翅(はね)は焦(こ)げよと
灯(ひ)のあるとこへ。
夜飛ぶ虫は。
明るい方へ
明るい方へ。
一分(いちぶ)もひろく
日の射(さ)すとこへ。
都会(まち)に住む子等は。
紙(かみ)の星
金子みすゞ思い出すのは、
病院(びょういん)の、
すこし汚(よご)れた白い壁(かべ)。
ながい夏の日、いちにちを、
眺(なが)め暮(くら)した白い壁。
小(ち)さい蜘蛛(くも)の巣(す)、雨のしみ、
そして七つの紙(かみ)の星(ほし)。
星に書かれた七つの字、
メ、リ、―、ク、リ、ス、マ、七つの字。
去年(きょねん)、その頃(ころ)、その床(とこ)に、
どんな子供(こども)がねかされて、
その夜の雪にさみしげに、
紙のお星を剪(き)ったやら。
忘(わす)れられない、
病院の、
壁に煤(すす)けた、七つ星。
雪
金子みすゞ誰(だれ)も知らない野の果(は)てで、
青い小鳥が死にました。
さむい、さむい、くれ方に。
そのなきがらを埋(う)めよとて、
お空は雪を撒(ま)きました。
ふかく、ふかく、音もなく。
人は知らねど、人里の、
家もおともにたちました。
しろい、しろい、被衣(かつぎ)着て。
やがてあけゆくあくる朝、
お空はみごとに晴れました。
あおく、あおく、うつくしく。
小(ち)さいきれいなたましいの、
神さまのお国へゆくみちを、
ひろく、ひろく、あけようと。
鯨捕(くじらと)り
金子みすゞ海の鳴る夜は
冬の夜は、
栗(くり)を焼き焼き
聴きました。
むかし、むかしの鯨捕(くじらと)り、
ここのこの海、紫津(しづ)が浦(うら)。
海は荒海(あらうみ)、時季(とき)は冬、
風に狂(くる)うは雪の花、
雪と飛び交(か)う銛(もり)の縄(なわ)。
岩(いわ)も礫(こいし)もむらさきの、
常(つね)は水さえむらさきの、
岸さえ朱(あけ)に染(そ)むという。
厚(あつ)いどてらの重ね着で、
舟(ふね)の舳(みよし)に見て立って、
鯨弱ればたちまちに、
ぱっと脱(ぬ)ぎすて素(す)っ裸(ぱだか)、
さかまく波におどり込(こ)む、
むかし、むかしの漁夫(りょうし)たち――
きいてる胸(むね)も
おどります。
いまは鯨はもう寄(よ)らぬ、
浦は貧乏(びんぼ)になりました。
海は鳴ります、
冬の夜を、
おはなしすむと、
気がつくと――
蓄音器(ちくおんき)
金子みすゞ大人はきっとおもっているよ、
子供(こども)はものをかんがえないと。
だから、私(わたし)が私の舟(ふね)で、
やっとみつけたちいさな島の、
お城(しろ)の門をくぐったとこで、
大人はいきなり蓄音器をかける。
私はそれを、きかないように、
話のあとをつづけるけれど、
唄(うた)はこっそりはいって来ては、
島もお城もぬすんでしまう。
「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ