misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
帆(ほ)
金子みすゞちょいと
渚(なぎさ)の貝(かい)がら見た間に、
あの帆はどっかへ
行ってしまった。
こんなふうに
行ってしまった、
誰(だれ)かがあった――
何かがあった――
帆(ほ)
金子みすゞ港に着いた舟(ふね)の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖(おき)をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。
はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠くへ行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。
ちひろのコメント
実は金子みすゞさんの詩には同じタイトルの「帆」という詩が2つ存在します。この「帆」は先に登場する方で、はるかの沖の舟が輝いている様子、その先の未来へと旅にでていく、きらきら感があります。みすゞさんの詩にはよく舟も登場しますね。詩の創作をした下関の関門の海を眺めながら、行き来する船を見ては、いろんな思いを馳せていたのでしょう。来週の詩に、同じ「帆」のもう1つの詩をご紹介します。睫毛(まつげ)の虹(にじ)
金子みすゞふいても、ふいても
湧(わ)いてくる、
涙(なみだ)のなかで
おもうこと。
――あたしはきっと、
もらい児よ――
まつげのはしの
うつくしい、
虹を見い見い
おもうこと。
――きょうのお八つは、
なにかしら――
ちひろのコメント
叱られた直後は悲しくて悲しくて、私は本当の子じゃないからこんなに叱られるんだ!ってどん底の気持ち。でも子ども心は良い意味で早変わり。いろんなことに興味が湧いて、涙の光る睫毛の虹があんまり綺麗で嬉しいから、叱られた後でもおやつはいただける、そんなプラス思考になるんですね。逆にこのくらいだから負けずにたくましく成長するんでしょうね。みすゞさんの小さい頃も、叱られたことがあるようです。きっと、こうして明るく育ったんでしょうね。明るい方へ明るい方へ♪栗(くり)
金子みすゞ栗、栗、
いつ落ちる。
ひとつほしいが、
もぎたいが、
落ちないうちに
もがれたら、
栗の親木は
怒(おこ)るだろ。
栗、栗、
落ちとくれ。
おとなしいよ、
待ってるよ。
ちひろのコメント
最後の2行のなんと可愛いこと。「おとなしいよ、待ってるよ。」って、この栗が落ちてくれることをこんなに楽しみにしてじっとしている様子。見事に表現されている言葉に感動します。栗はこんなに人間が楽しみに待っていること、知っているのでしょうか(笑)。巻末手記(かんまつしゅき)
金子みすゞ――できました、
できました。
かわいい詩集ができました。
我(われ)とわが身に訓(おし)うれど、
心おどらず
さみしさよ。
夏暮(く)れ
秋もはや更(た)けぬ、
針(はり)もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地(ここち)する。
誰(だれ)に見しょうぞ、
我さえも、心足(た)らわず
さみしさよ。
(ああ、ついに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)
とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来(こ)し。
明日(あす)よりは
何を書こうぞ
さみしさよ。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの3冊の遺稿集最後の詩です。まさに詩の創作を止めた時の気持ちを綴っている詩で、とても切なくなります。昭和3年の11月に発表された詩を最後にし、昭和4年の夏から秋にかけて、512編を清書しています。その年の9月26日付け、母ミチさんへ宛てたハガキには、「雑巾がけをしたら5日やすみました。起きてもなんにもしません。ほんに食べるだけの事です」と記しています。この頃の喜びだったのが、娘・ふさえさんのおしゃべりを小さな手帳に「南京玉」と題して記したことでした。今、その「南京玉」は、ふさえさんと母を繋ぐ大切な宝物になっています。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
もう一つの「帆」という詩。こちらが後から登場する方です。先週の「帆」は輝きがありましたが、こちらの「帆」はどこか寂しげです。あったはずのものが、今はもうない。手に入れていたものが、今はもう離れてしまった。失ってしまうもの、失ってしまったもの、そこに心が動いています。みすゞさんの人生を振り返ると、同じタイトルの「帆」と「帆」の間のみすゞさんの心の変化を心配してしまいます。