misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
夢(ゆめ)から夢を
金子みすゞ一寸法師(いっすんぼうし)はどこにいる。
一寸法師は身がかるい、
夢から夢を飛んで渡(わた)る。
そして昼間はどこにいる。
昼も夢みる子供等(こどもら)の、
夢から夢を飛んで渡る。
夢のないときゃ、どこにいる。
夢のないときゃ、わからない、
夢のないときゃ、ないゆえに。
花津浦(はなづら)
金子みすゞ浜(はま)で花津浦((はなづら)眺(なが)めてて、
「むかし、むかし」と
ききました。
浜で花津浦みる度に、
こころさみしく
おもい出す。
「むかし、むかし」と
花津浦の
その名の所縁(いわれ)きかされた
郵便局(ゆうびんきょく)の小父(おじ)さんは、
どこでどうしているのやら。
あのはなづらの
はな越(こ)えて、
お船はとおく
消えました。
いまも、入日(いりひ)に海は燃(も)え、
いまもお船は沖(おき)をゆく。
「むかし、むかし」よ
花津浦(はなづら)よ、
みんなむかしになりました。
ちひろのコメント
この「花津浦」という名前の由来には、牛の鼻の先という意味と、もう一つ、須佐之男命が愛しい我が子と妻を残して朝鮮へ渡ることに「離れづらい」と言われたためともいわれているようです。そのお話も、そのお話をしてくれた小父さんも、みんなみんな昔のことになってしまった。金子みすゞさんの郷愁の念が伝わる、「仙崎八景」と題した詩の一つです。星とたんぽぽ
金子みすゞ青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈(しず)んでる、
昼のお星は眼(め)にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦(かわら)のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの代表作の一つですね。「見えないものをみつめるまなざし」私もよくコンサートで歌う詩です。今のコロナ禍にとても大切な心だと思います。不安な気持ちや心配が多いと、目に見える状況、入ってくる情報に振り回される不安定な心になりますが、そんな時大切なのは、見えなくても信じる心です。同じように頑張っている人が見えなくても存在する、心と心が繋がっている。大切なものは、懸命に生きる姿は、実は目に見えないところにあるんですね。さびしいとき
金子みすゞ私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
ちひろのコメント
自分がさびしいときに、周りの存在がどんな気持ちでいてくれるのか。場を明るくしてくれる存在があったり、慰めてくれる存在があったりします。けれどこの詩の中でみすゞさんは、「仏さまはさびしいの」と綴っている。同じ気持ちであれば表現として「仏さまもさびしいの」の「も」を使いそうですが、「は」ということにハッとします。私がさびしいという事実が、仏さまにとってさびしいことであるということ。慰めの気持ちではなく、その気持ちそのものになっているということです。みすゞさんは、わずか2歳の時に父親を満州で亡くしています。もしかすると記憶にはないお父さんの存在が、いつも心にあったのかもしれません。いつも、みすゞさんに寄り添って・・・水と風と子供
金子みすゞ天と地を
くゥるくゥる
まわるは誰(だれ)じゃ。
それは水。
世界中を
くゥるくゥる
まわるは誰(だれ)じゃ。
それは風。
柿(かき)の木を
くゥるくゥる
まわるは誰(だれ)じゃ。
それはその実(み)の欲(ほ)しい子じゃ。
ちひろのコメント
天と地と、世界中というスペクタクルなお話なのに、最後は急に身近な身近な目の前の子どもの姿。金子みすゞさんの心の中では、きっと宇宙の広い果てしない空間から小さな芥子つぶまで、境目のない、自由に行き来できる心を持っているのだと思います。だから、人の心、自然界の姿、何の境もなく、共に生きている仲間なんですね、きっと。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
最近の私たちは、自分の日常をSNSの世界でも紹介し、実際に会っていなくても相手の様子を詳しく知ることが出来る。そんな生活リズムに慣れた中で、この詩を読んでいると、それとは反対の味わいが伝わってくる。わかならい様子があってもいいじゃない、何をしてるってわけでもない時があってもいいじゃない、と。ぼんやりと、何となく、そんな過ごし方が時にあっていい。ないときゃないゆえに、それを楽しんでいるものですね。