misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
海の人形
金子みすゞ大きな真珠(しんじゅ)のお手まりや、
貝のかずかず、枝珊瑚(えださんご)、
人魚のむすめは飽(あ)きました。
陸(おか)の子供(こども)のもつという、
黒(くろ)いおめめの人形が、
ほしい、ほしいと泣きました。
母さん人魚はいとしさに、
人形抱(だ)いた児(こ)の船を、
沈(しず)めてそれを奪(と)りました。
むすめは人形みるたびに、
とおいお国がこいしくて、
とうとう海を捨(す)てました。
海の人形はやわらかな、
藻(も)のゆりかごで、すやすやと、
いまも、お夢(ゆめ)をみています。
陸(おか)の人魚は、ふるさとを、
こいし、こいしと磯(いそ)でなく、
磯のちどりになりました。
海のお宮 —おはなしのうたの四—
金子みすゞ海のお宮は琅玕(ろうかん)づくり、
月夜のような青(あァお)いお宮、
青いお宮で乙姫(おとひめ)さんは、
きょうも一日(にち)、海みています。
いつか、いつかと、海みています。
いつまで見ても、
浦島(うらしま)さんは、
陸(おか)へかえった
浦島さんは――
海のおくにの静かな昼を、
うごくは紅(あか)い海くさばかり、
うすむらさきのその影(かげ)ばかり。
百年たっても、乙姫さんは
いつか、いつかと、海みています。
ちひろのコメント
おとぎ話を続きを描いた五編のシリーズのひとつです。浦島太郎が陸に上がったあとも、乙姫さんはまた来てくれることをいつまでも願っている。もしも、浦島太郎が玉手箱を開けなければ、また竜宮城へ行くことが出来たのかもしれませんね。乙姫さんは、「開けてしまったのですね・・・」といつの日か思うのかもしれません。ざくろ
金子みすゞ下から子供が
「ざくろさん、
熟(う)れたら私(わたし)に
くださいな。」
上からからすが
「あほかいな。
おさきへ私が
いただこよ。」
あかいざくろは
だんまりで、
下へ、下へと、
たれさがる。
ちひろのコメント
からすのセリフ「あほかいな。」面白いですね。みすゞさんもこんな表現するんだと、クスっと笑う1行です。ざくろはなんとも言えない気持ちです。子どもに食べてほしいのか、カラスが怖いのか、それとも、誰にも食べられたくはないなぁ、なのか・・・。この世の中には、いろんな心が見え隠れしております。失(な)くなったもの
金子みすゞ夏の渚(なぎさ)でなくなった、
おもちゃの舟(ふね)は、あの舟は、
おもちゃの島へかえったの。
月のひかりのふるなかを、
なんきん玉の渚まで。
いつか、ゆびきりしたけれど、
あれきり逢(あ)わぬ豊(ほう)ちゃんは、
そらのおくにへかえったの。
蓮華(れんげ)のはなのふるなかを、
天童たちにまもられて。
そして、ゆうべの、トランプの、
おひげのこわい王さまは、
トランプのお国へかえったの。
ちらちら雪のふるなかを、
おくにの兵士にまもられて。
失(な)くなったものはみんなみんな、
もとのお家へかえるのよ。
ちひろのコメント
この豊ちゃんは、みすゞさんの親友の田辺豊々代さんのことだと思われます。自分の大切なもの、大切な人、全て元々の場所へ戻ったのと、みすゞさんは想います。みんなみんな、いつか、空の向こうへ、元のおうちへ帰るんですね。夕立征伐(せいばつ)
金子みすゞたらいの舟(ふね)に積むものは、
光るサーベル、杉鉄砲(すぎでっぽう)。
お八つに貰(もら)ったビスケット。
さあさ、船出のお支度(したく)だ、
艦長(かんちょう)さんの乗込(のりこ)みだ。
みちで金魚がきいたなら、
私(わたし)はいばってどなるのだ。
「私のこさえた箱庭を、
たたいて、こわして、行っちゃった、
いまの夕立、征伐に。」
ちひろのコメント
庭で遊んでせっかく作った箱庭。夕立に壊されてしまって、怒っている様子さえ可愛いです。夕立征伐。おやつのビスケットも、しっかり腹ごしらえに大切な食糧です。子どもの感性を、20歳を過ぎている金子みすゞさんは、こんなにも素敵に表現します。夕立が降ると、ふと、この詩を思い出します。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
まるで、アンデルセン童話を思わせるお話。みすゞさんはきっとその影響も受けていた、と言われています。自分の持っていないものが欲しくなる、別の世界へ行ってみたい、いろんな思いを叶えてみたら、やっぱり元のお家が恋しくなる。私たちは、実は、いつもとても幸せな場所にいる。このお話は切ない中に、大切なメッセージを伝えてくれますね。