misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
薔薇(ばら)の町
金子みすゞみどりの小径(こみち)、露(つゆ)のみち、
小みちの果ては、薔薇の家。
風吹(ふ)きゃゆれる薔薇の家、
ゆれてはかおる薔薇の家。
薔薇の小人はお窓(まど)から、
ちいさな、金の翅(はね)みせて、
おとなりさんと話してた。
とんとと扉(どあ)をたたいたら、
窓も小人もみな消えて、
風にゆれてる花ばかり。
薔薇いろのあけがたに、
たずねていった薔薇の町。
その日
わたしは蟻(あり)でした。
二つの草
金子みすゞちいさい種(たね)は仲よしで、
いつも約束(やくそく)してました。
「ふたりはきっと一しょだよ、
ひろい世界(せかい)へ出るときは。」
けれどひとりはのぞいても、
ほかのひとりは影(かげ)もなく。
あとのひとりが出たときは、
さきのひとりは伸(の)びすぎた。
せいたかのっぽのつばめぐさ、
秋の風ふきゃさやさやと、
右に左に、ふりむいて、
もとの友だちさがしてる。
ちいさく咲いた足もとの、
おみこし草を知りもせず。
ちひろのコメント
この「つばめぐさ」と「おみこし草」。実は「つばめぐさ」は別名「おへびいちご」という植物が一般的ですが、この詩のものは「燕麦(エンバク)」ではないかと言われています。そして「おみこし草」は「神輿草(ミコシグサ)」。ぜひ、皆さんもチェックしてみてください。より一層、この物語が可愛らしく見えてきますよ。露
金子みすゞ誰にも言わずに
おきましょう。
朝のお庭の
すみっこで、
花がほろりと
泣いたこと。
もしも噂が
ひろがって、
蜂のお耳へ
はいったら、
わるいことでも
したように、
蜜をかえしに
ゆくでしょう。
ちひろのコメント
歌にしている詩のひとつですが、本当に優しさに溢れる世界です。お花の露が涙に見えている「わたし」の黙っておこうとする優しさ、そして噂を聴いたら蜜を返しに行くであろう蜂の優しさ。動きのない状況の中、見えない心情に、思いやりがあふれています。きっと私たちの世の中は、こうした思いやりでいっぱいなんです。素敵な世界です。あるとき
金子みすゞお家(うち)のみえる角へ来て、
おもい出したの、あのことを。
私(わたし)はもっと、ながいこと、
すねていなけりゃいけないの。
だって、かあさんはいったのよ、
「晩(ばん)までそうしておいで」って。
だのに、みんなが呼(よ)びにきて、
わすれて飛んで出ちゃったの。
なんだかきまりが悪いけど、
でもいいわ、
ほんとはきげんのいいほうが、
きっと、母さんは好(す)きだから。
ちひろのコメント
子どもの心は忙しいですね。これが子どものリズムです。大人は結構いつまでも引きずることも、子どもは楽しいことがあったらすぐに忘れることが出来る。そしてまた、最後がいいです。自分が機嫌がいい方がお母さんは好きだからと、開き直る可愛らしさ。こうした子どもらしさ、憎めないですね。
けがした指
金子みすゞ白い繃帯(ほうたい)
していたら、
見てもいとうて、
泣きました。
あねさまの帯(おび)借(か)りて、
紅(あか)い鹿(か)の子(こ)でむすんだら、
指はかわいい
お人形。
爪(つめ)にお顔を
描(か)いてたら、
いつか、痛(いた)いの
わすれてた。
ちひろのコメント
私たちの感覚って、不思議ですね。痛いはずなのに、それ以上に夢中になれるものがあると、痛いのを忘れることが出来る。それがもっと広がって、いやなことがあった時も、それ以上に幸せだと思えることを見つけると、いやなことも忘れることが出来る。思い方ひとつで、日々が変わる。自分の気持ち次第で、毎日が明るくなるんですね。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
最後に「わたしは蟻でした」という言葉があります。そこでもう一度、蟻になってこの詩を読んでみると、また違った世界が見えてきます。そしてこの詩でハッとするのは、扉の振り仮名が「ドア」と振ってあるところです。金子みすゞさんが当時、下関という大都会で過ごしていたその新しい感覚がここで伝わってくるようですね。