misuzu kaneko金子みすゞ

今週の詩

お月さん
                  金子みすゞ

夜あけのお月さん
山のきわ。
籠(かご)に飼(か)われた白い鸚鵡(おうむ)、
ねとぼけお眼(めめ)でひょいと見て、
おうやおや、お連れだ、呼(よ)ぼうかな。

昼間のお月さん
沼(ぬま)の底。
麦藁帽子(むぎわらぼうし)の子供(こども)が岸で、
釣竿(つりざお)かまえて睨(にら)めてた。
すてきだ、釣(つ)ろうか、かかるかな。

日ぐれのお月さん
枝(えだ)のなか。
くちばし赤い小鳥が一羽、
お眼くりくりみはってた。
とっても、熟(う)れたぞ、つつこかな。
2019/05/27の詩

にわとり
                  金子みすゞ

お年をとった
にわとりは、
荒(あ)れた畑に
立っている。

わかれたひよこは
どうしたか、
畑に立って
おもってる。

草のしげった
畑には、
葱(ねぎ)の坊主(ぼうず)が
三四本。

よごれた、白い
にわとりは
荒れた畑に
立っている。
2019/05/20の詩

駈(か)けっこ
                  金子みすゞ

駈(か)けっこをするたびに、
きっとちらりと目にうかぶ、
濃(こ)いむらさきの旗の色。

よその学校(がっこ)の運動場、
よその子供(こども)とならんでて、
わくわくして、走ってて、
ころんだときに、ちらと見た、
うちの学校の旗の色。

駈けっこをするたびに、
きっとちらりと目にうかぶ。
2019/05/13の詩

橙畑(だいだいばたけ)
                  金子みすゞ

橙畑の橙の木は、
みんな伐(き)られた、その根も掘(ほ)られた、
ただの畑になるって話だ。

なにをつくるか知らないけれど
茄子(なす)にゃぶらんこ掛けられまいし
  (てんと虫ならできようけれど)
豆で木登りできるものか。
  (ジャックの豆なら知らないけれど。)

橙畑の橙の木は、
青い実のままみんな伐られた。
あそぶ処(ところ)がまた一つ減(へ)ったよ。
2019/05/06の詩

空の鯉(こい)
                  金子みすゞ

お池の鯉よ、なぜ跳(は)ねる。

あの青空を泳いでる、
大きな鯉になりたいか。

大きな鯉は、今日ばかり、
明日はおろして、しまわれる。

はかない事をのぞむより、
跳ねて、あがって、ふりかえれ。

おまえの池の水底に、
あれはお空のうろこ雲。

おまえも雲の上をゆく、
空の鯉だよ、知らないか。
2019/04/29の詩

「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より

JULA出版局

金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796

金子みすゞプロフィール

金子みすゞ

 『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
 金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。

 そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
 ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。

 それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
 天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

(金子みすゞ記念館ホームページより)

金子みすゞ記念館

みすゞさんとの出会い

2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。

ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」

みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。

「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。

みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。

こだまし合う、一人として。

ちひろ

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