misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
お勘定(かんじょう)
金子みすゞ空には雲がいま二つ、
路には人がいま五人。
ここから学校(がっこ)へゆくまでは、
五百六十七足(あし)あって、
電信(でんしん)柱が九本ある。
わたしの箱のなんきん玉は、
二百三十あったけど、
七つはころげてなくなった。
夜のお空のあの星は、
千と三百五十まで、
かぞえたばかし、まだ知らぬ。
わたしはかんじょうが大すき。
なんでも、かんじょうするよ。
海とかもめ
金子みすゞ海は青いとおもってた、
かもめは白いと思ってた。
だのに、今見る、この海も、
かもめの翅(はね)も、ねずみ色。
みな知ってるとおもってた、
だけどもそれはうそでした。
空は青いと知ってます、
雪は白いと知ってます。
みんな見てます、知ってます、
けれどもそれもうそかしら。
ちひろのコメント
歌にしている詩の一つ。自分の心の色が重なる光景。青いはずの海と空、白いはずのかもめと雪。「うそ」という言葉を金子みすゞさんが使っている表現の強さに、悲しみなのか、寂しさなのか、それが映り込んできます。自分の眼に映る色合いというのは、心の色なんですね。お祖母様(ばあさま)と浄瑠璃(じょうるり)
金子みすゞ縫(ぬ)いものしながらお祖母(ばあ)さまは、
いつもおはなし、きかせました。
おつる、千松、中将姫(ちゅうじょうひめ)……、
みんなかなしい話ばかり。
お話しながらお祖母(ばあ)さまは、
ときどき浄瑠璃(じょうるり)きかせました。
おもい出しても胸(むね)がいたむ、
それはかなしい調子(ちょうし)でした。
中将姫をおもうせいか、
そのことはみんなみんな、
雪の夜のようにおもわれます。
それももう遠いむかし、
うたの言葉はわすれました。
ただ、せつない、ひびきばかり、
ああ、いまも、水のように、
かなしくしずかに沁(し)みてきます。
さらさらと、さらさらと、
ふる雪の音(おと)さえも……。
ちひろのコメント
実際にみすゞさんのお家では浄瑠璃のお話を子守歌のように聞かせていたというエピソードが残っています。きっとみすゞさんの心には、この詩の言葉そのままに心の奥に沁みていたことでしょう。真っ白な雪の中に、物語の世界が映し出されるように。一寸法師(いっすんぼうし) ――おはなしのうたの三――
金子みすゞ一寸法師でなくなった
一寸法師のお公卿(くげ)さま、
お馬に乗って、行列で
うまれ故郷(こきょう)へおかえりだ。
父さん、母さん、にこにこと、
一寸法師のおむかえに、
ちいさなお駕籠(かご)を仕立てましょ、
駕籠(かご)舁(か)きゃすばやい野ねずみだ、
えっさ、えっさと出てみれば、
おや、おや、大したお行列、
どなた様じゃとよく見れば、
一寸法師でなくなった
一寸法師のお公卿(くげ)さま。
ちひろのコメント
金子みすゞさんが5編シリーズで綴ったおとぎ話の続きを描いたうちの1編。これを読むと確かに、おとぎ話を読み進んでいる私達からしたら、一寸法師が立派な大人になったことを知っているけれど、物語の中で一寸法師の帰りを待っているおじいさんたちからしたら、小さな小さな一寸法師が帰ってくるものと想像している。そうか、そりゃ驚くことになるわけだ。と、お話には描かれていない場面の出来事に初めて気づきます。みすゞさんの想像力は、いろんなところに目が届いている、心が寄り添っている、この眼差しには脱帽してばかりです。硝子(がらす)のなか
金子みすゞおもての雪が見えるので、
ひらひらお花のようなので、
明(あか)り障子(しょうじ)の絵硝子(えがらす)を、
お炬燵(こた)にあたって見ていたら、
うらの木小屋(きごや)へ木をとりに、
雪ふるなかを歩いてく、
お祖母(ばあ)さまのうしろかげ、
ちらちら映(うつ)って、消えました。
ちひろのコメント
小さい頃におばあちゃんのお家へ行って、孫の自分たちは炬燵に入ってゆっくりしているのに、おばあちゃんは色々とみんなのために動いてくれている、その光景が重なります。何も言わないけれど、その姿が物語る。子どもはそうやって、覚えていくのでしょうね。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
みすゞさんは、いろんなものを数えるのも大好きだったみたいです。みすゞさんの実家から小学校までは本当に電信柱は9本だそうで、
そして、人が肉眼で夜空の星を数えられるのは、およそ3,000個だそうで、
みすゞさんのこの感覚は正確な数字と言えるようです。
ふんわりと見つめるまなざしもあれば、正確に知ろうとする心も持ち合わせているみすゞさん。
彼女の魅力は、宇宙のように果てしないです。