misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
紙鉄砲(かみでっぽう)
金子みすゞ紙鉄砲、
ポン、ポン、ポン。
きのうまでなかったに、
一にちで流行(はや)ったよ。
みんなが篠竹(しのだけ)切ってくる、
みんなが紙玉こしらえる。
紙鉄砲、
ポン、ポン、ポン。
昨日まで暑(あつ)かったに、
一にちで秋が来た。
みんなが篠竹けずってる、
みんながお空をみあげてる。
栗(くり)と柿(かき)と絵本
金子みすゞ伯父(おじ)さんとこから栗が来た、
丹波(たんば)のお山の栗が来た。
栗のなかには丹波の山の
松葉が一すじはいってた。
叔母(おば)さんとこから柿が来た、
豊後(ぶんご)のお里の柿が来た。
柿の蔕(へた)には豊後(ぶんご)の里の
小蟻(こあり)が一ぴき這(は)っていた。
町の私(わたし)の家(うち)からは、
きれいな絵本がおくられた。
けれど小包あけたとき、
絵本のほかに、何があろ。
ちひろのコメント
田舎の小包には田舎らしい自然を感じるおまけが入っていて、都会の小包はただ綺麗なだけ他にはなにもない。今の時代、きっとほとんどの人が、その田舎の小包よりも都会の綺麗な小包を好むでしょう。でも、この予期しないおまけをどう感じるかで、心の豊かさを思い出すような気がします。お祖母様の病気
金子みすゞお祖母さまが御病気(ごびょうき)で、
庭には草がのびました。
花咲(さ)くころは朝ごとに、
仏(ほとけ)さまに、と剪(き)っていた、
薔薇(ばら)の葉っぱは穴(あな)だらけ、
松葉ぼたんも枯(か)れました。
となりから来る鶏(にわとり)も、
なにか小くびをかしげます。
昼もひろうて、しんとして、
秋の風が吹(ふ)いていて、
空屋(あきや)みたいになりました。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの子どもの頃の家族は、祖母、母、兄、そしてみすゞさん(テルちゃん)でした。弟は養子に出され、下関の親戚の家です。そんな家族構成の中できっと、お祖母様の存在はとても大きかったのでしょう。いつも家のことをいろいろしてくれている、それが当たり前のようになっていた日常。みすゞさんのお祖母様、どんな方だったんだろうと、想像が膨らみます。丘で
金子みすゞあたまの上には青い空、
足の下には青い草。
お伽噺(とぎばなし)にいつも出る、
王女の姿(すがた)はうつくしい。
けれども黄金(きん)の冠(かんむり)は、
青い空よりちいさいし、
きれいな黄金(きん)のあの靴(くつ)も、
青い草よりかたいだろ。
あたまの上には青い空、
足の下には青い草。
丘に立ってる私(わたし)こそ、
もっときれいな王女さま。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの詩には、王様や王女様が出てくる詩も沢山あります。きっと外国のおとぎ話も大好きだったんですね。そしてこの詩はリズムがいいです。調子のいい気分のリズムが伝わってきます。気持ちの良い青い空と青い草に包まれて、なんとも心地良い明るさがあります。空屋敷(あきやしき)の石
金子みすゞ空屋敷(あきやしき)の石が
なくなったよ。
とりもち搗(つ)くのに
よかったに、なあ。
石はお馬車に
乗ってったよ。
空屋敷の草は
さびしそうだ、なあ。
ちひろのコメント
今は「とりもち」は禁止されているものですが、当時は木の皮から作っていたんですね。「よかったに、なあ。」「さびしそうだ、なあ。」の「なあ」という表現に、なんとも言えない心の「ぽっかり感」が伝わってきます。句読点の使い方が特徴的なみすゞさんですが、この繊細な表現に、いろんな心の描写が見え隠れしますね。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール

『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ



ちひろのコメント
一日で秋が来た。いつも秋は突然やってくるんですね。それにしても、みすゞさんは、いつも心模様をふとした動作で表現する天才ですね。何気ない光景の中に、ふと感じる小さな感覚。秋が来た。ということ。この細やかな気づきが、私たちは嬉しかったりするのです。