misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
林檎畑
金子みすゞ七つの星のそのしたの、
誰も知らない雪国に、
林檎ばたけがありました。
垣もむすばず、人もいず、
なかの古樹の大枝に、
鐘がかかっているばかり。
ひとつ林檎をもいだ子は、
ひとつお鐘をならします。
ひとつお鐘がひびくとき、
ひとつお花がひらきます。
七つの星のしたを行く、
馬橇の上の旅びとは、
とおりお鐘をききました。
とおいその音をきくときに、
凍ったこころはとけました、
みんな泪になりました。
お使い
金子みすゞお月さま、
私(わたし)は使いにまいります。
よその嬢(じょっ)ちゃんのいいおべべ、
しっかり胸(むね)に抱(だ)きしめて。
お月さま、
あなたも行ってくださるの、
私の駈(か)けてゆくとこへ。
お月さま、
いたずらっ子に逢(あ)わなけりゃ、
いつも私はうれしいの。
おかあさんのおしごとを、
よそへ届(とど)けにゆくことは。
それに、それに、
お月さま、
私はほんとうにうれしいの。
あなたがまあるくなるころに、
私も春着ができるから。
ちひろのコメント
お月さま、と話しかけるかわいい姿。付いてきてくれるお月さまに思いを馳せる、大人になっても大きな存在のお月さま。そしてお月さまにだけ、本当の気持ちを語っている、そんな姿もかわいらしい。わくわくする春への想い、お月さまはきっと優しく見守ってくれていますね。くれがた
金子みすゞ暗いお山に紅(あか)い窓(まど)、
窓のなかにはなにがある。
空(から)っぽになったゆりかごと、
涙(なみだ)をためた母さまと。
明るい空に金の月、
月の上にはなにがある。
あれはこがねのゆりかごよ、
その赤ちゃんがねんねしてる。
ちひろのコメント
とても切ない中にも心救われる物語。私たちの日常には、見えないところでいろんなお別れもあります。その心にもそっと寄り添ってくれる金子みすゞさんの詩のまなざしは、コンサートでも、そのやさしさに救われたと言われるお客様に出会います。詩の世界で、いろんな心情に心傾けるひととき。これもまた、大切な出会いですね。鯨捕(くじらと)り
金子みすゞ海の鳴る夜は
冬の夜は、
栗(くり)を焼き焼き
聴きました。
むかし、むかしの鯨捕(くじらと)り、
ここのこの海、紫津(しづ)が浦(うら)。
海は荒海(あらうみ)、時季(とき)は冬、
風に狂(くる)うは雪の花、
雪と飛び交(か)う銛(もり)の縄(なわ)。
岩(いわ)も礫(こいし)もむらさきの、
常(つね)は水さえむらさきの、
岸さえ朱(あけ)に染(そ)むという。
厚(あつ)いどてらの重ね着で、
舟(ふね)の舳(みよし)に見て立って、
鯨弱ればたちまちに、
ぱっと脱(ぬ)ぎすて素(す)っ裸(ぱだか)、
さかまく波におどり込(こ)む、
むかし、むかしの漁夫(りょうし)たち――
きいてる胸(むね)も
おどります。
いまは鯨はもう寄(よ)らぬ、
浦は貧乏(びんぼ)になりました。
海は鳴ります、
冬の夜を、
おはなしすむと、
気がつくと――
ちひろのコメント
金子みすゞさんのお父さんの故郷、長門市仙崎の通地区。捕鯨文化を今に伝える港町。夏には「鯨まつり」が今も毎年行われ、赤いふんどし姿の男性陣が、威勢よく鯨を獲るシーンが人気を博しています。「いのちを獲る」ことに感謝を忘れない漁師の世界。勇ましさの中に、その思いは受け継がれています。お花だったら
金子みすゞもしも私(わたし)がお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、誰(だれ)かがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐに怒(おこ)ってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。
ちひろのコメント
とても綺麗な癒しのお花たち。でも、物も言えない、自分では動けないのですよね。それを思うと、自由な私たちはなんてわがままなんだろうと思います。やっぱり、私も、お花のようにはなれまいな。です。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
きれいな描写ですね。忘れ去られているような林檎の樹になった林檎を、もいだことがわかる鐘の音が遠くに響きます。この旅人はその雪国がふるさとなのでしょうか。凍ったこころがとけるほど、温かな気持ちになる鐘の音。いろんな思いが重なりますね。誰にも知られない心のうちを、そっと見つめられる心でありたいな、そうも思いました。