misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
御本(ごほん)
金子みすゞさびしいときは、父さんの、
お留守(るす)の部屋で、本棚(ほんだな)の、
御本の背(せな)の金文字を、
じっと眺(なが)めて立ってるの。
ときにゃ、こっそり背のびして、
重たい御本をぬき出して、
人形のように、抱(だ)っこして、
明るいお縁(えん)へ出てゆくの。
なかは横文字ばかしなの、
カナはひとつもないけれど、
もようみたいで、きれいなの。
それに、ふしぎな香(か)がするの。
お指なめなめ、つぎつぎに、
しろい、頁(ぺいじ)をくりながら、
そこにかかれたお噺(はなし)を、
つぎからつぎへとこさえるの。
若葉のかげの文字(もじ)にさす、
五月のお縁(えん)で父さんの、
大きな御本よむことが、
私(わたし)ほんとに好きなのよ。
つばな
金子みすゞつゥばな、つばな、
白(しィろ)い、白(しィろ)いつばな。
夕日の土手で、
つばなを抜(ぬ)けば、
ぬいちゃいやいや、
かぶりをふるよ。
つゥばな、つばな、
白(しィろ)い、白(しィろ)いつばな。
日ぐれの風に、
飛ばそよ、飛ばそ、
日ぐれの空の、
白(しィろ)い雲になァれ。
忘(わす)れた唄(うた)
金子みすゞ野茨(のばら)のはなの咲(さ)いている、
この草山にきょうも来て、
忘れた唄をおもいます。
夢(ゆめ)より遠い、なつかしい、
ねんねの唄をおもいます。
ああ、あの唄をうとうたら、
この草山の扉(と)があいて、
とおいあの日のかあさまを、
うつつに、ここに、みられましょ。
きょうも、さみしく草にいて、
きょうも海みておもいます。
「船はしろがね、櫓(ろ)は黄金(こがね)」
ああ、そのあとの、そのさきの、
おもい出せないねんね唄。
鯨法会(くじらほうえ)
金子みすゞ鯨法会は春のくれ、
海に飛魚(とびうお)採(と)れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘(かね)が、
ゆれて水面(みのも)をわたるとき、
村の漁夫(りょうし)が羽織(はおり)着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖(おき)で鯨(くじら)の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
山ざくら
金子みすゞさくら、さくら、山ざくら、
私(わたし)は髪(かみ)に挿(さ)しました。
山ひめさまになりました。
さくら、さくら、山ざくら、
その木の下に立ちました。
山ひめさまは立ちました。
さくら、さくら、山ざくら、
舞(ま)っておみせ、といいました。
山ひめさまがいいました。
さくら、さくら、山ざくら、
ひらりしゃらりと舞いました。
山ひめさまにみせました。
さくら、さくら、山ざくら、
髪から、みんな散りました。
駈(か)け駈けかえる山みちで。
「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ