misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
切り石
金子みすゞ石屋に切られた
切り石は、
飛んで街道(かいど)の
水たまり。
学校もどりの
左側、
はだしの子供よ、
気をつけな。
切り石ゃ切られて
おこってる。
雨あがり
金子みすゞ一ばんさきにみつけたは、
ちいさなはこべの花でした。
「あれあれ、あすこにお日いさま。」
雲のかげからお日いさま、
ちょいと、目ばかり出してます。
どの木も、どの木も、枝(えだ)ならし、
どの葉も、どの葉も、うれしげに。
「おおお、お日さま、お久(ひさ)しゅう、
ずいぶんみんなは待ちました。」
雲のかげからお日いさま、
いらずらそうに、笑ってる。
ちひろのコメント
ずっと続いた雨があがる時の、植物たちの喜びです。このセリフの「おおお、」という表現、とても好きです。「おお」ではなくて3つ「お」が繋がっているこの表現。よっぽど待っていた感が伝わりますねぇ。お日さまの「目」だけ出しているという表現も、本当に可愛いです。雲の隙間からほんのちょっと差し込む光。今度、雨上がりの日差しが差し掛かっていた時があったら、ぜひこの「雨あがり」の詩を思い出して、重ねてみつめてみてください。とっても素敵な童謡の世界が広がるでしょう。
日の光
金子みすゞおてんと様のお使いが
揃(そろ)って空をたちました。
みちで出逢(あ)ったみなみ風、
(何しに、どこへ。)とききました。
一人は答えていいました。
(この「明るさ」を地に撒(ま)くの、
みんながお仕事できるよう。)
一人はさもさも嬉(うれ)しそう。
(わたしはお花を咲かせるの、
世界をたのしくするために。)
一人はやさしく、おとなしく、
(わたしは清(きよ)いたましいの、
のぼる反り橋かけるのよ。)
残(のこ)った一人はさみしそう。
(わたしは「影(かげ)」をつくるため、
やっぱり一しょにまいります。)
ちひろのコメント
この「日の光」は実は2種類存在しています。今回ご紹介した方は、昭和3年「燭台」に掲載された方で、「金子みすゞ童謡全集」の本編には別のほうが載っています。詩集をお持ちの方は、是非2つ味わってみてください。比べる楽しさがありますよ。私は最初にこの表現の方に出合ったので、もうこれが心に沁み込んでいますが、改めてもう一つの方を月日を経て味わうと、また、それぞれの良さがジーンとしてきます。少しの言葉づかいの違いで、こんなにも違ってくるのかと、それもまた面白い味わいです。私(わたし)の丘(おか)
金子みすゞ私の丘よ、さようなら。
茅(つばな)花もぬいた、草笛を、
青い空みて吹(ふ)きもした、
私の丘の青草よ、
みんな元気で伸(の)びとくれ。
私ひとりはいなくても、
みなはまた来てあすぼうし、
ひとりはぐれたよわむしは、
ちょうど私のしたように、
わたしの丘と呼(よ)びもしょう。
けれど、私にゃいつまでも、
「私の丘」よ、さようなら。
ちひろのコメント
金子みすゞさんが下関へ移り住む時の心境のような、そんな気持ちになる詩です。3月から4月に移るこの季節、出会いと別れの季節に重なる詩のように感じます。大切な自分の場所を時には離れなくてはならない、みすゞさんの人生にも様々な「決断の時」というものがありますね。誰にでも、その経験があることでしょう。切ないけれど、潔く。それは、潔いから、切ないです。赤い靴(くつ)
金子みすゞ空はきのうもきょうも青い、
路はきのうもきょうも白い。
溝(みぞ)のふちにも花が咲(さ)いた、
小(ち)さいはこべの花が咲いた。
坊(ぼう)やもべべがかろなって、
一足、二足、あるき出した。
一足踏(ふ)んでは得意(とくい)そうに、
笑う、笑う、声を立てて。
買ったばかしの赤い靴で、
坊や、あんよ、春が来たよ。
ちひろのコメント
金子みすゞさんの詩の春の詩の中でも大好きな詩のひとつです。坊やが歩きだした喜びと、その歩いた足元に春が来ている。喜びが重なり合って、とてもとても明るい明るい春です。毎年来るこの春のおとずれの中に、小さな幸せを沢山見つけたいですね。「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
TEL:03-3818-0791 FAX:03-3818-0796
金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ
ちひろのコメント
金子みすゞさんにかかると、石ころたちの世界が生き生きとしてきます。私たちが石につまづいたり、切り傷をつけたりしたときは、石たちの機嫌が悪いのかもしれません。石にも心のようなものがあったとしたら、日々いろんなことに影響を受けて、それも当然でしょう。共に生きているこの世界で、いろんなものに思いやりを持つことは、やさしい世界をつくる、傷つかない世界をつくる、大切なことかもしれませんね。