misuzu kaneko金子みすゞ


今週の詩

ちひろのコメント
とても綺麗な癒しのお花たち。でも、物も言えない、自分では動けないのですよね。それを思うと、自由な私たちはなんてわがままなんだろうと思います。やっぱり、私も、お花のようにはなれまいな。です。
お花だったら
                  金子みすゞ
もしも私(わたし)がお花なら、
とてもいい子になれるだろ。

ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。

だけど、誰(だれ)かがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐに怒(おこ)ってしぼむだろ。

もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。
ちひろのコメント
とても綺麗な癒しのお花たち。でも、物も言えない、自分では動けないのですよね。それを思うと、自由な私たちはなんてわがままなんだろうと思います。やっぱり、私も、お花のようにはなれまいな。です。
2024/11/18の詩

朝蜘蛛(あさぐも)
                  金子みすゞ

朝から朝蜘蛛(あさぐも)さがったし、
朝からなんだかうれしいし、
きっと、今日こそ来るでしょう。

お母さまも知らないが、
生きて、遠くに棲(す)んでいる、
お父さまのおむかえが。

すぐに、私(わたし)は髪(かみ)結(ゆ)うて、
好きな手毬(てまり)のおべべ着て、
赤いお馬車に乗るでしょう。

赤いお馬車のゆくみちは、
白い芒(すすき)のみちでしょう、
野菊(のぎく)もちいさく咲いてましょう。

旗のたってる小(ち)さい村、
鐘(かね)の鳴ってる寺のまえ、
しめった、暗い森のなか。

そして、夕焼消えるころ、
むこうのむこうに城(しろ)のよな、
大きなお家がみえるでしょう。

お父さまは待ちきれず、
門から駈(か)けてくるでしょう、
私も馬車から飛ぶでしょう。

私は「父さま」と呼(よ)ぶでしょう、
いやいや、黙(だま)っているでしょう、
あんまり、あんまり、嬉(うれ)しくて。

朝からなんだかうれしいし、
朝から朝蜘蛛(あさぐも)さがったし、
きょうは、何かがあるでしょう。
ちひろのコメント
この詩を知ってからは、朝、蜘蛛を見かけると嬉しくなります。(小さい蜘蛛に限りますが・・・大きい蜘蛛はちょっと怖いです(笑))みすゞさんが2歳の時にお父さんは満洲で亡くなりました。なので、お父さんの記憶のないみすゞさん。詩に登場するお父さんは、とても切なく映ります。この詩は特に、切ないです。この寂しさを抱えている心が、今もどこかで在ることを、忘れないでいたいです。
2024/11/11の詩

「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より

JULA出版局

金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒113-0021 東京都文京区本駒込6-14-9 株式会社フレーベル館内
TEL:03-5395-6657 FAX:03-5395-6659

金子みすゞプロフィール

金子みすゞ

 『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
 金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。

 そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
 ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。

 それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
 天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

(金子みすゞ記念館ホームページより)

金子みすゞ記念館

みすゞさんとの出会い

2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。

ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」

みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。

「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。

みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。

こだまし合う、一人として。

ちひろ

 


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