misuzu kaneko金子みすゞ
今週の詩
黄金(きん)の小鳥
金子みすゞ木(こ)の葉(は)が黄金(きん)に変(か)わった、
私(わたし)も黄金に変わろ。
とおいお国の王様の、
使いが私をおむかえに、
宝玉(たま)でかざった籠(かご)もって、
きっと、きっと、やって来る。
黄金(きん)の木(こ)の葉(は)は散った、
散っても黄金(きん)のいろだ。
明日(あした)はきっと、変(か)わろ、
くろい私が黄金(きん)に。
黄金(きん)の木の葉は朽(く)ちた、
黄金(きん)になりゃ、朽ちる、
黒くて光っていような。
漁夫(りょうし)の子の唄(うた)
金子みすゞ私(わたし)は海に出るだろう。
いつか大きくなった日に、
そしてこんなに凪(なぎ)の日に、
浜(はま)の小石(こいし)におくられて、
ひとりぼっちで、勇ましく。
私は島に着くだろう。
ひどい暴風(あらし)に流されて、
七日七夜(なぬかななや)の、夜あけがた、
いつも私のおもってる、
あの、あの、島のあの岸へ。
私は手紙を書くだろう。
ひとりで建(た)てた小屋のなか、
ひとりで採(と)った赤い実を、
ひとり楽しく食べながら、
とおい日本のみなさま、と。
(そうだ、手紙を持ってゆく、
お鳩(はと)ものせて行かなけりゃ。)
そして私は待つだろう。
いつも、いじめてばかりいた、
町の子たちがみんなして、
私とあそびにやってくる、
あかいお船の見えるのを。
そうだ、私は待つだろう。
丁度(ちょうど)こんなふうにねころんで、
青いお空と海を見て。
祇園社(ぎおんしゃ)
金子みすゞはらはら
松の葉が落ちる、
お宮の秋は
さみしいな。
のぞきの唄(うた)よ
瓦斯(がす)の灯(ひ)よ、
赤い帯した
肉桂(にっけい)よ。
いまは
こわれた氷屋(こおりや)に、
さらさら
秋風ふくばかり。
栗(くり)と柿(かき)と絵本
金子みすゞ伯父(おじ)さんとこから栗が来た、
丹波(たんば)のお山の栗が来た。
栗のなかには丹波の山の
松葉が一すじはいってた。
叔母(おば)さんとこから柿が来た、
豊後(ぶんご)のお里の柿が来た。
柿の蔕(へた)には豊後の里の
小蟻(こあり)が一ぴき這(は)っていた。
町の私(わたし)の家(うち)からは、
きれいな絵本がおくられた。
けれども小包あけたとき、
絵本のほかに、何があろ。
金のお好きな王さま
金子みすゞ金(きん)のお好きな王さまの
御殿(ごてん)は金になりました。
王様のお手が触(さわ)るとき、
薔薇(ばら)ものこらず金でした。
王様のお手が抱(だ)くときに、
おひめさまさえ、金でした。
王様のお手のとどくとこ、
世界はみんな金でした。
けれども、けれども、
そのときに、
空はやっぱり青でした。
「金子みすゞ童謡全集」(JULA出版局)より
金子みすゞの詩、写真は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。
転載される場合は、必ず「金子みすゞ著作保存会」の許可を得てください。
連絡先:〒112-0001 東京都文京区白山3-4-15 内田ハウス1F JULA出版局内
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金子みすゞプロフィール
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、 離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の 残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。
(金子みすゞ記念館ホームページより)
みすゞさんとの出会い
2003年(平成15年)1月21日、私は東京から山口へ帰郷しました。
作曲家活動の中で、自分の音楽の方向性を見失い、もう一度自分を見つめなおそうと思ってのことでした。
偶然にもその年は、みすゞさん生誕100年の年でした。
私が12歳の時に、父が買っていた1冊の詩集「わたしと小鳥とすずと」(金子みすゞ童謡詩集)を初めて手にとり、ページをめくりました。
ズキンズキンと心臓が鳴るのがわかりました。
「これだ…ここに私が歌いたい心がある…」
みすゞさんは、命あるものなきもの、見えるもの見えないもの、
全ての存在へ優しく深い眼差しを向けている…。
その世界の中で私たちは、尊い命を与えられて生きている。
命、絆、ご縁、全てのつながりに感謝をし、今を自分らしく生きて行く。
そのためのメッセージが、やわらかく、眩しく、描かれている。
「この詩に曲をつけて歌いたい」
この出合いの瞬間から、私は再び音楽の道を歩み始めました。
みすゞさんが伝えてくれる大切な心を、
ずっとずっと、歌い語っていきたい。
こだまし合う、一人として。
ちひろ